いいから早く「若おかみは小学生!」を見る作業に戻るんだ

ネタバレまみれなので折りたたみ

 

 

若おかみは小学生!」を見てきた。

あまりの素晴らしさに打ち震えながら文を綴っているため普段より乱文気味であるのはお許し願いたい。

あまりにも美しい「感情」で殴られると人は言葉が出なくなるものなのだと実感した次第。

 

 

詳しい感想などは他の文才ある方におまかせするとして、一点気になる点があったため、この記事ではその「気になった点」を軸に書いていくこととする。あ、作品の瑕疵とかそういうものではなく監督の仕掛けたであろう「大きなイタズラ」について。

 

https://img.dmenumedia.jp/movie/wp-content/uploads/2018/10/599205805bc5ac1697b31main.jpg

(docomo社のdmenu映画よりリンク、(C)令丈ヒロ子・亜沙美・講談社/若おかみは小学生!製作委員会)

 

上記リンクは「若おかみは小学生!」(以下「若おかみ」)のコンテである。

当該映画をご覧になった方は「ああ、あの練習のシーン!いいよね!!」ともうすでに涙腺が華厳の滝ほどではなくとも白糸の滝くらいの水量を用意し始めているかもしれない。

しかし、このコンテ、あくまでコンテであるためか、上映された映画本編とは大きく異なっている点がある。

 おっことピンふりが扇を持っていない?畳敷きでなく板張りになっていた?

それも大きく異なってはいるが、私が最も注目したのは背景の「扁額」だ

 

www.youtube.com

(0:10あたりを参照)

 

扁額に「二分心」と書かれているのがおわかりになるだろうか。

これが高坂監督の仕掛けた「大きなイタズラ」だ。

 

  • 「二分心」とはなんぞや

二分心というのは米国の心理学者ジュリアン・ジェインズの提唱した「古代人の意識」についての仮説である。

現代の心理学では「意識」というものは「言葉」に根ざしているため、「言葉」を持たない古代人は「意識」が存在しなかったのではないかとされる(厳密には「原意識」と「高次の意識」の2つに区別され、「原意識」を持っているという*1 )。

そして「言葉のない」時代というのは「神の言葉を皆が聞けていた」時代であると定義し、逆説的に「意識のない=言葉のない状態」は「神の言葉を聞ける状態」として脳がカスタマイズされていたもの、と定義される。

つまり脳が「神の声を聞く部分」と「今日一般に言われている意識の部分(=原意識)」の2つに分離していたという説を指す。

この状態(=神の言葉を聞ける脳の状態)を「二分心」と称し、現代人は「二分心が崩壊・統合した状態であり、それと引き換えに『意識』を手に入れた」状態である。

この場合における「神」というのはどちらかといえば『内心の声』に近いものであり、その『内心の声』を神託などの形で危機解決で利用していたとジェインズは指摘する。

 

  • それと若おかみになんの関係が

「若おかみ」のおっこはうり坊や美陽ちゃん、鈴鬼などの『人ならざるもの』の声が聞こえ、姿が見える。

すなわち「二分心」のアプローチは米国の心理学者であるゆえ当然キリスト教的な「神の声」だが、これを日本的アニミズムへと拡張した場合、うり坊・美陽ちゃん・鈴鬼はすべて「神」であるといえる。

「神の声が聞こえる」=「二分心」であり、「二分心」=「意識がない」と定義されているため、前半のおっこは意思が薄く『神の意志に従うだけ』の存在だった。

後半になるに連れてうり坊や美陽ちゃんの声が聞こえなくなる=「二分心の崩壊」を示唆している。

意識の統合が行われ、二分心が崩壊し、意識の獲得が行われるためのイニシエーションとしての神楽舞だったのだとしたら、その前段階としての神楽舞の練習場に掲げてある扁額に『二分心』と大書するというのは監督の悪戯心、もしくは監督の仕込んだ「通奏低音」の為せる業であると感じるのは穿ち過ぎであろうか。

 

なお、二分心は現代人に残っていないわけではなく、残っている「二分心」は幻聴などに形を変え残っているとジェインズは指摘する。

実際、うり坊と話しているときのおっこの様子はどことなく幻覚を見ているように「見えた」はずだ。年齢ゆえのイマジナリーフレンドと考えることも可能だが。

「七つまでは神の子」などとも言うけれども、おっこは12歳。ヴェールを剥ぐように大人へ近づく時期だろう。

特に大人との世界が近い(「春の屋」で働いている)おっこはそういう意味でも成長が早いであろうことは想像に難くない。

ある種の親離れの物語であり、赦しの物語と判断してしまうのは早計であろうか。

 

なお、扁額の下、向かって右側の掛軸に書かれている書は一部分しか判別できないが、おそらく「生我者父母 生我者朋友*2」かと思われる。

「我を生みし者は父母 我を生せし者は朋友」。この文章をあえて「神楽舞の練習」の場に掲げるのもなかなかに意地が悪いように私は思える(もちろんすべて監督の手のひらの上ということは承知の上だ)

 

更に言うのならば木瀬へ美味しい料理を作ろうとおっこがピンふりを頼るシーン。

背景に流れるのはシューマンの「トロイメライ」、ピンふりが読んでいるのはユヴァル・ノア・ハラリ著「ホモ・デウス」(しかもおそらく原著)という徹底っぷり。

まずはトロイメライ。こちらはタイトルをフルで聞けばすぐにピンとくるであろう。『「子供の情景」より第7曲「トロイメライ」』。たしかにそのシーンは「子供の情景」である。

しかしそれに「ホモ・デウス」という毒が突き刺さる。これは一読していただくよりほかはないのだが、ざっくり言うのならば「人の意識の源はある種決定論的(もしくはランダム)である」という仮説が示されている。

もし「自由意志」とは自分の欲求に即してふるまうことを意味するなら、たしかに人間には自由意志がある。

(中略)
だが肝心の疑問は、人間が内なる欲求に従って行動できるかではなく、そもそもその欲求を選ぶことができるかどうか?だ。なぜ黒ではなく赤い自動車を買いたがるのか? なぜ共産党ではなく自民党に投票したいと思うのか? 人はこれらの願望のひとつとして自分では選んでいない。特定の願望が自分の中に沸きあがってくるのを感じるのは、それが脳内の生化学的プロセスによって生み出された感情だからだ。そのプロセスは決定論的かもしれないし、ランダムかもしれないが、自由ではない。

出典 ユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス 

 これを小学6年生に読ませる監督、なかなかの猛毒。

 

つらつらと書き連ねましたが、まずはご一覧あれ。

アニメーション技術としても本邦最高峰レベル、五指に入る傑作であると思っています。凸レンズと凹レンズのメガネの差を描きわける技術は尋常じゃないですよ……!

*1:G,M,エーデルマン 1995

*2:管仲 『祖堂集』